佐野彷徨(下段4月佐野行も合わせて御覧ください)

シモキタ

9/7 駅前市場跡は5軒程になり。昼から盛り上がる居酒屋の一角
9/7 駅前市場跡は5軒程になり。昼から盛り上がる居酒屋の一角
日本ヨコチョロジー協会
日本ヨコチョロジー協会

「yokochologyなのだ」

 

☆散歩で、ちょっとアンテナを伸ばすだけで「なにか?なもの!なもの」が見えてきます。いつものコースなのに「見えて来る」ものがあります。散歩には旅行やアウトドア、脳や体の健康運動、はては芸術や哲学の要素まであると思うのです。猫の仕草を面白がる、揚げたてコロッケを食べてみる、落ち葉を記念に持ち帰る、虫の名を調べる、昔の地形を推察する、路地があれば入ってみる、角があれば曲がってみる…自分なりの楽しみ探しを「yokochology」といいます

(日本ヨコチョロジー協会)講師・竹村本店

 

*「NHKカルチャー柏」の講座はお休み中です

よみうりカルチャー恵比寿
よみうりカルチャー恵比寿

おとなの遠足『東京横丁路地さんぽ』

 

角があれば曲がってみる…自分なりの楽しみ探し「yokochology」

2013.1.16〜スタート

「①本郷東大あたり」

*今回は開講できませんでした。またの機会を

『三角屋根のお医者さん』千住大橋眼科医院

 

高度経済成長期(そういう時代もあったわね)に壊され失われていく文化財建物を見て出来る限り残したいと、初代医院長が公共、劇場、映画館、個人を問わず申し出て30年がかりで集めた都内の古い建物の部分品が使われている。大正期からあった医院(三角屋根の洋館)を建て替える際に

集めた明治大正の建材を使い元のイメージを再現させた。1982年完成。いい仕事と敬服致します。

 

参考 http://www.ne.jp/asahi/ohashi/masaaki/senju.html

アウトレットモールの風車
アウトレットモールの風車

『4月末佐野行』

下野の佐野という町は、機業地として知られている。いかにも富裕な町といった感じで、どんなに小さな家でもたたずまいが清潔であった。杉板の表面を炭化させた家々の側面がときどき露地をつくっていて、露地のむこうには軒瓦の列と格子戸が見え、その向こう通りをゆくひとの下駄の音がきこえるほどに静かだった。私は兵隊にとられて二年ぶりで日本の町というものの中を歩いていた。私自身、町育ちのせいか、佐野の露地から露地へ通りぬけるのが、たまらなく好きだった」(司馬遼太郎)

…と、書いているが、駅周りの再開発で路地や旧家が消え、どこにもあるような顔のない街になってしまった…まだ残る記憶の中の景色に再見

 

アウトレットモールの風車
アウトレットモールの風車

『4月末佐野行』

下野の佐野という町は、機業地として知られている。いかにも富裕な町といった感じで、どんなに小さな家でもたたずまいが清潔であった。杉板の表面を炭化させた家々の側面がときどき露地をつくっていて、露地のむこうには軒瓦の列と格子戸が見え、その向こう通りをゆくひとの下駄の音がきこえるほどに静かだった。私は兵隊にとられて二年ぶりで日本の町というものの中を歩いていた。私自身、町育ちのせいか、佐野の露地から露地へ通りぬけるのが、たまらなく好きだった」(司馬遼太郎)

…と、書いているが、駅周りの再開発で路地や旧家が消え、どこにもあるような顔のない街になってしまった…まだ残る記憶の中の景色に再見

 

アウトレットモールの風車
アウトレットモールの風車

『4月末佐野行』

下野の佐野という町は、機業地として知られている。いかにも富裕な町といった感じで、どんなに小さな家でもたたずまいが清潔であった。杉板の表面を炭化させた家々の側面がときどき露地をつくっていて、露地のむこうには軒瓦の列と格子戸が見え、その向こう通りをゆくひとの下駄の音がきこえるほどに静かだった。私は兵隊にとられて二年ぶりで日本の町というものの中を歩いていた。私自身、町育ちのせいか、佐野の露地から露地へ通りぬけるのが、たまらなく好きだった」(司馬遼太郎)

…と、書いているが、駅周りの再開発で路地や旧家が消え、どこにもあるような顔のない街になってしまった…まだ残る記憶の中の景色に再見

 

2009.11
2009.11

『向島』

「神保町1」

「神保町2」

『裏原宿・裏表参道1』

『原宿2』

『原宿3』

『原宿4』

『原宿5』

『広尾・西麻布』

『広尾・西麻布2』

2010.3
2010.3

『北千住・1』

『北千住・2』

『鉛筆路地』

町区、公園と宅地の境目などに所属管轄のはっきりしない細長い土地が「おやこんな所に」ある。未知の道に入り込むのはときめくものだが、かような場所がけっこう多いのでなぜかと考察。宅地道路公共施設などの工事をするのに図面の一枚も引っ張るだろうが、精密な毛抜き合わせなどしないのでそのときの筆記具(パソコンも含めて)の芯の線の太さ分の地面が現場に残ってしまったのではないか?

2012.6
2012.6

「下北沢マーケット」

 

”開発”が進み、すでに線路側は駅設備に取り込まれ、ほとんどシャッターが下り残る店は数軒。

「昼でも居酒屋」に客ひとり。静かに飲っていた。

2008.11
2008.11

『下北沢』

 

横丁、路地、これにマーケットがプラスされると散歩の楽しみが濃密になります。シモキタの駅前がまさに模範優等生なのですが、最後の再開発が始まりシャッターをおろす店舗ばかりになりました。でも、まだ在ります。会わんで後悔しなさんなや

2009.12
2009.12

『銀座2』

 

川の名残り 有楽町駅前の元そごう、今はビックカメラかなの脇の道に降りるに段差がある。この道路は微妙な曲線を描いているが、そう以前は川が流れており暗渠にして道路設置となったもの。近くの首都高もくねっとカーブしつつ通過する。ドラマの舞台になった数寄屋橋等々、川の名残リが多い。界隈の川のほとんどは江戸期に掘削された人工河川。京橋川などと橋の名を冠する川名もあるのは同時竣工されたからであろう。

 

抜け道 高架橋の下の通路に入り込むとドキドキの明るいうちから開店の居酒屋、おやこんなところにオフィスなどなど秘密めかした別世界。旧都庁から西銀座デパート、ぐぐっと潜って帝国ホテル近くで日の目を見る場所に「新幸橋」の橋柱。道の路地の入り口が垣間見えたら、お入んなさい。

『月島佃島』(東京横丁路地さんぽ/NHK文化センター講座・再録)

佃島

本能寺の変、明智を討たんと駆けつけた家康が形勢不利でござる江戸に帰らんと堺から脱出したときに船舶手配などで世話になった摂津(大阪淀川区)佃の漁師を江戸湾の小島に呼び寄せ優先的独占的に漁をさせた。漁師達は出身地名にちなみ佃島と呼んだのでありまして、佃煮は漁師の船上食のおかずがルーツで佃煮を作ったから佃島と名付けたというのは本末が逆であります。

三海神を祀る佃住吉神社も摂津から分霊。

月島

明治期になってからの埋め立て地。東京港も横浜のように大型船を横付けできる港にしようと浚渫した土砂で埋め立てて造船所社員社宅用に文化長屋を整備したのが月島のはじまり。

続いて2,3号埋め立て地はは勝鬨、4号は晴海である。

 

本郷あたり(参考メモ)

◯江戸のうち   城を中心に江戸人口8割の武家の町が広がる。蔵付きの上屋敷が江戸城を取り巻きその外側の中下屋敷がある辺りはもう郊外で人口2割の庶民も密集して住んでおり江戸名物大火の出火元ともなった。振袖火事の本妙寺が近くに。かねやす界隈までがなんとか江戸の町とされ外側は藁葺き屋根ときどきぽつん人口まばらな野原だったんですね。
 

 

◯赤門  徳川家斉の娘・溶姫が前田家に嫁入りする際に建造された館へと通ずる御守門。朱塗り門は消失したら再建不可とされていたので門前は広く火除け地が設けられた。本郷の海抜最高地点はここ。近くの薬医門は患者をいつでも受け入れる意味で扉に閂がないというのが いいね!。

 

◯菊坂  赤門前の高台から坂を下り右手路地を上がった…ふう、かように界隈は坂ばかりでありますが坂は散歩の香辛料!…角に老舗金魚店金魚玉。鑑賞させて頂けます御休処もあります。江戸では狭いですという住宅事情もあり犬猫に手が出ないので金魚ブーム。陶器鉢で飼い上から観賞したので背中が美しいものが人気だったのがギヤマン硝子鉢が普及すると横からの姿体美もポイントに品種改良。

 さて菊坂は菊栽培業者が多く、庶民は庭もないから軒先鉢植えを愛でるので需要があったのです。菊人形興行などもある繁華街でありました。途中のお肉屋さんに寄り菊坂コロッケを食べながら本道を行かず平行した通称したみちに。樋口一葉ゆかりの井戸、竹竿を上下する物干のある長屋、主人顔した猫達、現役銭湯などの風景が続く

 

◯一葉 達磨大師が揚子江を葦葉で渡る故事から筆名に。一葉は幼少時に東大正門近く、20歳頃から菊坂に住んで24歳没。           本郷に文人墨客あまたなのは宿や高級下宿が充実していたのはこの辺だけだったから。本郷郵便局方に鳳明館の建物など当時の名残も見られます。五叉路や旧家の佇まい、今も下宿屋ですなど…よいよ。




本郷菊坂あたり(東京横丁路地さんぽ)

本郷三丁目交差点から菊坂に平行する一段下の通称したみち(下道)には樋口一葉ゆかりの下宿や井戸の名残も残ります。

◯東大あたり  築庭だけでも3年かかったという加賀前田藩の広大な上屋敷のあった所。本来は仕事をする公式の事務所である上屋敷を住居にもしたのは稀なケース。将軍家斉の娘の嫁ぎ先なので甘く大目にみたということか。中屋敷を私的住居にするのが通常なり。ちなみに下屋敷は別荘、避難所という位置付け。

*東大に入る といっても入学したのではなく構内に入ったのである。無断ではまずかろうと守衛に尋ねると禁止区域以外はご自由にであった。学問は万人に開かれているのである。コンビニ、カフェ、土産物店などもあり建造物、モニュメントetc.歴史時代背景も興味深く今度ゆっくりしに来よう

東京横丁路地さんぽ『池之端あたり』

地下鉄根津駅から地上に出て、不忍通りと言問通り交差点から赤札堂裏手へ回り込むと静かな町並み。蕎麦屋、二階建てアパート、三階建て総檜造りの木造建築、新しめのカフェなども懐かしムードでたたずんでいる。

かつての江戸湾日比谷入り江の奥まった位置にあり、海が後退すると不忍池に藍染川が注ぐ近世の地形となる。明治になると川の跡に道が出来て根津遊郭や盛り場本郷辺りに繰り出す人で賑わったそうな。

最高学府、美術学校のお膝元とてアカデミックな空気も流れているようであります

(NHK文化センター柏教室/さんぽ講座)

東京横丁路地さんぽ『新宿2・3丁目』

1日平均利用者が300万人を超えるというマンモス駅を背にぎんぎんの人波の繁華街を行き、伊勢丹角から明治通リをあちらへ渡りますってえと空気感がちと変わってまいります。お子様方の姿が稀になり、時代のついた店や寄席なぞもありまして、昭和が濃くなったようなぶろっくですな。さらに進み通りを渡ると「あちら」です。ショッピングのご婦人方がここまで足を伸ばす事はないのじゃなかろうか、別のタイブのマダム達は出没するようになりますがね。

 (NHK文化センター柏教室/さんぽ講座)

東京横丁路地さんぽ『新宿2・3丁目その2』

江戸から大木戸四谷4丁目を出ると次のお休み所は高井戸宿。遠くて大変だからという陳情で設けられたしい宿が「新宿」なれど大木戸を出たばっかじゃん!なぜにここ?理由諸々あれど旅籠あれば飯盛り女あり、旅に出て早速羽を伸ばせたことは確かであります。旅籠が近年に貸座敷となり色っぽい処になりまして、震災で他の色町消失、残った新宿はモダン遊郭として盛況…の名残がある界隈でもあります。

「都電」

新宿大ガード方向から靖国通りを歌舞伎町入り口の角筈停留所をかすめ、明治通りとの交差点、伊勢丹の脇に四谷三光町停留所(安全地帯とも言います)がありました。13系統水天宮行きは明治通り角をえぐって裏側のゴールデン街へと入り込み大久保車庫へと抜ける。いま線路跡が遊歩道になっており抜けて西武新宿から風林会館経由目前の通りは「かに川」の暗渠上。歩道との段差があったり妙なカーブを描く道路はたいてい以前の川の上と心得ます。都電は便利だったのにもたもた徒党で走る自動車に追いやられてしまって残念

東京横丁路地さんぽ『深川・門仲』

門前仲町、清澄白川、木場あたりをぶらぶら

(NHK文化センター柏教室/さんぽ講座)


深川・門仲1
深川・門仲1
深川・門仲2
深川・門仲2

東京横丁路地さんぽ『谷中辺り』

2008.6
2008.6

東京横丁路地さんぽ『銀座1』

2008.5.26
2008.5.26

東京横丁路地さんぽ『人形町』